■インディーズゲーム開発に3DCGは本当に必要か? -または私は如何にして3Dゲームを恐れて2Dゲームを愛するようになったか-

最近インディーズゲームが興味深くて色々みている。

見ているというのは作品内容だけではなくて、開発に関する話とかについても。

そうしている中で、ふと「インディーズゲーム開発に3DGは本当に必要か?」という疑問がわいたので、ここに考えを整理してみる。

※私にゲーム開発の経験はなく、あくまで個人の感想

 

▼3DCGの利点

ゲームビジュアルにおける3DCGの利点は、大きく下記が考えられる。

 

・流用性

3Dとしてのビジュアル

・自由度

・アニメーション、動作

 

▼流用性

まず、流用性には2種類ある。

 

・その作品内での流用性

・次回作以降への流用性

 

作品内での流用については、作るだけなら数日で必要な「パーツ」が準備出来るだろう。

RPGツクールのように使うグラフィック素材を用意すれば、あとは組み合わせでいくらでも様々な形が得られる。理屈上は。

だが、問題は作り込みである。

高い理想を目指す程、難易度は跳ね上がる。工数が増えるだけならまだマシで、そも技術的な実装方法が見つからないというリスクがある。修正に合わせて、作業規模も工数も増える。

また私は機械設計用の3Dソフトしか触った事がないが、3Dの怖いところはどんなに頑張って労力で押し切ろうと、ソフトの仕様やモデリングの関係上描けないものは全く描けないという事にある。

嫌でも専門技術を得るか、クオリティを諦めるか、別アイデアで回避するしかない。

 

修正や改良を簡単に出来るようあらかじめ作るのは、さらに大変だ。高度な知識とスキルに基づく基礎設計が要求される。

下手なモデルは一発目は速く出来上がるが、小さな修正さえ出来ない一点物になっているのが常だ。素晴らしいモデルはこの逆である。

 

これらの問題には、まず「世に既にあるものの活用」が効果的と思われる。

誰かが作ったグラフィックの流用がすぐ思いつくが、エフェクトや画像修正も既存のものを活用できる。モデルを動かすならなめらかな動きの処理や、処理落ち対策の為の方法等。

ただしこれを的確に探しバグを考慮し、ライセンスを確認し必要に応じて契約・購入するのは中々時間がかかる。精通するエンジニアがいれば別だが、雇うにもコストがかかるしそも優秀なエンジニアを引き込めるか続けてくれるか問題がある。

 

アウトソーシング(外注)すれば良いと考えるのも手だが、そうすると発注費用以前に管理コストが激増するだろう。

思ってたのと違う、世界観やビジュアルが統一されない、言った言わない等のやり取りで日が暮れる。

そうならない為にはプロジェクトマネジメントの知識とスキルが管理者に要求される。

 

開発規模や難易度の増大は管理コストを指数関数的に増やす。アウトソーシングしても、そのマネジメントに時間がかかる。

そしてどんなプロジェクトも効率的にマネジメント出来て問題なく現場を回せる工学的手法は、私の知る限り存在しない(あったら教えてほしい)。

PMBOKは素晴らしいが、結局は便利なツールが沢山入った道具箱の域を出ない。だから「知識体系」なのだ。理論ではない。

様々な技術知識を組み合わせ、対象のプロジェクトに適用させる他に術はない。

 

結局、流用性が上がり効率的と思って3DCGを選んだ結果、むしろ手間と時間ばかりかかり非効率な結果になるというケースが生まれる。3Dは本来非常に優れた技術だが、その分難易度は高く、流用性を理由に安易に手出しすべきではないだろう。

 

では、他作への流用はどうか。

これはあくまで過去作があってはじめてその「同じ規格の資産」を活用できる。

大手メーカーが強いのは「同じ規格の資産」を多く持っているからだろう。違う規格の資産なら世に数多くあるが、前述の通り自作に組み込んで使えるようにするまでが大変だったりする(優秀なエンジニアであればその辺は気にしないかもしれないが)。また開発数が多くないとあまり有効ではない。年間開発数の多い大手メーカーは、逆にこれがないと開発が厳しいとも言えるだろう。

 

 

3Dとしてのビジュアル面

次に3Dとしてのビジュアル面だが、これも流用性と同様、作り込みが問題である。

ビジュアルにおいては背景との親和性や2Dイラストとのデザインバランス、また巨額の資金で開発されたソフトと見比べた際、独自性や優位性を発揮するのが難しいという部分がある。

これらを無視してただ3Dで作ったモデルを組み合わせるだけなら簡単だ。

だが、世界観やクオリティを意識し統一や向上を目指すなら一気に難易度があがる。

これに独自性・優位性を考え出したら中々悩ましい。

3Dゲームのビジュアル面は、大手作品さえアラを探せばきりがない。何を優先し何を切っても良いか、限られたリソースの中で取捨選択する。その結果がゲームとしてのバランス、クオリティにつながるのだろう。

 

▼自由度

私は恩師から「プログラムを暴走させるのは簡単だ。問題はどうやって制御するかだ」という言葉をいただいた事がある。

全くその通りだと思う。

3DCGは、文字通りその三次元的な動きがビジュアル面以外に「プレイ出来る」という優位性を持つ。即ち体験性を向上させる。

だが、それはそれだけ「制御しなければならない事」が増える事を意味する。

ゲーム的に、シナリオ的に、あるいは処理落ち等のシステム的な事情から、様々な「出来ないこと」を決めていかなければならない。デバッグ工数も増える。

 

ではビジュアル面だけ3Dにし、動ける範囲は2Dゲーム的にしようとする。

これなら確かに労力は激減する。変わりに、ビジュアル面やアニメーション、動作面で3Dを選ぶ意味を考え直さなければならなくなる。

 

 

▼アニメーション、動作

キャラクターを動かしやすい、アニメーションにしやすい。

この効果は非常に大きい。まず2Dアニメーションを作るのに必要な技術がいらない。3Dモデルのキャラクターと背景とセットがあれば、映画的に「撮影」する事が可能になる。

動いている、動きがつく。これはキャラクターのイメージを、作中のイメージをプレイヤーに実に想像させやすくなる。

では、何故すべてのゲームはそうなっていないのだろう?考えられるのは以下の通りだ。

 

○ゲームとしてのフォーマットと需要の問題

アニメーションや2D表現がゲームにおける主流であった期間は実に長い。コアなゲーマーや、専用マシンを持ったユーザーはリッチなゲーム体験を求める事もあるが、それがゲームユーザーのすべてではない。

未だに2Dビジュアルのゲームが新発売されるのは、単に開発側だけの問題ではなく、需要もまたあるからと考えるのが自然だ。

 

○クオリティの問題

これはかなり大きいと思っている。

感動出来る2Dグラフィックは数多ある。感動出来ないものや不出来なものもあるが、何故かそれらの印象は薄い。

だが、感動出来る3Dグラフィックの作品に対し、感動を削がれる3Dグラフィック作品があまりに多く感じられる。すなわち上と下の差が激しい。違和感を感じやすい。

これは2Dに対し、3Dが文字通りひとつ次元が増えている為と考える。次元が多いと、そこに関わるものすべてが多くなる。色、質感、コントラスト、表現、画面と音、タイミング、体験。

すべてに奥行きの要素を考慮しなければならなくなる。

また、表現の上限と下限の幅の広さもあるのだろう。2D、特にドット絵等では表現制限が大きい。その限界に挑戦したタイトルなどには感動するが、逆に下限もそう深くない。グラフィックがひどいものになっていても、案外そこまで気にならない。まぁこれは私だけかもしれない。

 

○想像余地の問題【または私は如何にして3Dゲームを恐れて2Dゲームを愛するようになったか】
すべてを描かないが故に、想像の余地を与える。これは小説等の文章媒体では特に強力な手法であり効力である。そしてこれは2Dグラフィックのゲーム作品にも言えるものと思う。
2Dでも画面にすべては描かれている、と思うかも知れないがそれは違う。

2Dのグラフィックは「ある場所(視点)から観た(あるいは観てすらいない)」光景や画面を「ある瞬間だけ切り取って」描くのである。
サウンドノベルやADV系をイメージすると分かりやすい。シーン毎に、それを表現する代表的な画面が2Dグラフィックで描かれる。
RPGならマップ移動があるじゃないかと思うかも知れないが、移動の際は移動の映像が、戦闘の際は戦闘の映像が、村の中なら村の中の映像が存在する。
何が言いたいかと言えば、視界移動や変化がシームレスではない。


逆にはじめて3DCGのゲームに触れた際の驚きのひとつは、このシームレスという要素だった。

決まった視線や瞬間ではなくに見渡せ歩き回れるという体験性は、強力な3Dの効果だった。

しかしそれは、良いも悪いも関係なくすべてを見せるという事でもある。私が3DCGゲームにハマりきれなかった最大の理由は、多分これだ。
やればやるほど、箱庭感に浸食されるのだ。ここは箱庭なんだと気づかされる、その閉塞感に耐えられない。
まぁ大分前のゲームに関してなので、最近は違うかもしれない。それでもやはり、やり込んだ時に感じてしまうあの感覚が私にはやはり耐えられない。苦手意識が未だにある。かつて飽きるほどにゲームばかりしていた時期があるからこそ、そう実感する。

 

だが不思議と、2Dゲームにはそれがなかった。
理由はずっと分からなかったが、この記事を書いている中で、それが「想像の余地があるから」ではないかという考えに至った。
2Dグラフィックには想像の余地がある。元々が、見えない見れないものの方が多い前提なのだ。
だからプレイヤーは、終始想像の余地を(無意識にでも)意識しながらプレイする。
だから私は本も、漫画も、ドット絵ゲームも、2Dグラフィックゲームも、今まで飽きずにいくらでも付き合ってこれたのだろう。

長く付き合う上で、この「想像の余地」は強力である。
いつ見ても世界の半分、彼らの顔の反対側は、私の想像でしかないのだ。だから10年後に新たな解釈に気づく、可能性に気づく事だってあり得る。

3DCGのすべてがそうとは言わない。だが、やはりその世界の「想像の余地」という点で劣る(これは善し悪しの問題ではなく、それぞれが持つ「特性」なのだと思われる)。

そして想像の余地は「その世界を信じさせてくれる力」へと繋がる。

 

・・・・・・何にせよ、クラッシュバンディクーが売られていた時代も今は昔。

フル3Dという事そのものの優位性は、ゲームにはもうない。むしろ大手からインディーズまで溢れかえっていて、今ではただのジャンルにすぎない。

その割にあまりに労力が工数が、かかりすぎる気がする。私が知らぬだけかも知れないが。

  

▼インディーズゲーム開発に3DCGは不要か?

では、ここまで言うのならもうインディーズゲームに3DCGは不要なのだろうか。

そう単純な話ではない、と私は考える。

そうではなくて、重要なのは「的確な認識と採用基準」ではないだろうか。3DCGとはあくまで表現手法の一種であり、重要なのはそれを選ぶ理由である。

 

開発プロジェクトというのは基本的にリソースの奪い合いである。どう足掻いても奪い合いである。

だからこそ、一番大事なものに奪わせねばならないし、与えねばならない。

リソースを割くとは、奪わせる事だ。そうでなければ、他のどうでもいいものにどんどん勝手に奪われてしまう。

欲しがった際に、どれに一番にリソースを取る権利を与えるか。そこが重要なのである。

 

ゲームであれば、ただ綺麗なだけのビジュアルにすべてを費やす訳にはいかないはずだ。そのゲームコンセプトに応じて、答えは変わる。

様々な要素の中で何を重視するか、作品のコンセプトは何か、他を捨ててでも譲れない部分はどこにあるのか。

そこから考えねばならないだろう。

 

その意図した選択の中にあって、3DCGを採用すべきか否を決めるべきなのだ。

また最初から3Dで作る必要もない。

例えば『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は、開発中のプロトタイプをまず2Dで作成したという。それで詰めた仕様を元に、あの規模と完成度の作品を開発している。

また『MOTHER3』はNINTENDO643Dゲームとして開発するも挫折し、アドバンス用に2Dドットに開発を切り替えた事で完成させることが出来たという。

グラフィック事情一つとっても、大手さえ一筋縄では行かないらしい。

 

重要なのは、前述の様々なハードルを抱える3DCGを安易に採用していないか?という事だ。

メリットとデメリットを天秤にかけて選択しているか?

足かせになっている割に、成功しても効果は薄いのではないか?

途中からでも切り替えるべきではないか?

考えるポイントはいくつもあるし、そう問いたくなるプロジェクトをいくつか知っている。

 

 

例えば私がゲームを作るなら、自身の優柔不断さや傲慢さワガママさを知っているから、3DCGには手を出さない。

重視する部分に対するこだわりが強いので、変更の柔軟性やプロトタイピングのしやすさを重視するからだ。

大人数で規模の大きい物を作るより、一人やせいぜい少人数で納得出来るものを作りたいと考えるからだ。

また体験性は重視するが、それは「主人公の操作性」というよりも「物語の中における主人公という疑似体験性によってプレイヤーに体験性を感じてもらう」という手法を取るであろう、とも考えている。

 

 

▼最後に

何故だろう、別段ゲームを作る予定もないのにこんなに長々と書いてしまった。

繰り返しになるが、私は別段ゲーム開発経験者でも熱心なゲーマーでもないので、あくまでも一個人の見解と認識いただきたい。

■諦める予定なし

大分blogの方を放置していた。

Twitterの使い方を学んだ為、そちらに大概一元化した結果とも言える。

 

Twitterでも触れた通り、小説「真夏の空席」の執筆、及び表紙・全話扉絵・挿絵の自作というはじめての試みに挑戦した。

これにはかなりの労力と時間がかかったが、今の私に出来る事はしたと言える作品に出来た。

 

加えて、更に長編となる予定の本編執筆。

公式には設定のみ公開されている状態であり、プロット・ストーリー、結末は私が考える必要がある。「真夏の空席」執筆前に、全体の大枠は作っていたし、本blogにもあれこれと書いている。

 

しかし、9万字程の中編を書き上げた今、この数倍の長編に取り組むのに足りない部分を多く痛感している。

これは急げ急げでやるのではなく、腰を据えてじっくりと取り組まねばならない。

これには多くの準備を要すると直感した。それは

 

▼日中の仕事をこなしつつ、続ける為の体制作り。

▼書きつつも作品を完結するまでが長い事により発生する課題。

▼規模が大きいが為にプロットや構造構築ばかりになり発生する、小説を書きたいのに本文が一文字も書けない不毛感・文章執筆要求。

▼作品としてひとつ仕上げたいという創作欲求。

▼創作行為のみに注力した結果気づくインプットが足りない事という実感。

 

である。

 

体制、執筆技術、インプット。

これを準備してから取り組む必要があると考え、現在も進めている。

 

特に“創作活動そのもの”の、自身の体制の見直し。

これに注力している。

 

最近投稿している短編や企画への参加、Twitterへの私見のつぶやき、イラストの投稿等、テキスト以外の創作行為を行っているのもこの一環だ。

私はこれからどういう形態で創作活動をしていくのか、どうすれば続けていけるか、どうすれば作り続けられるか、創作していけるか。

 

私は、創作行為とは理性を越えた生理レベルの根源的快楽だと思っている。

だから本能のままに、ただ楽しく続けられれば良いのであって、その他の問題課題は、その他の方で個別に解決すればいいと思っている。

 

では何故わざわざ体制だ準備だという話になっているのかと言えば

それは「ただ楽しく続ける」事が、今のまま創作行為を続けていては厳しいと感じたからだ。

「ただ楽しく続ける」為にこそ、今面倒でも労力がかかっても、日夜その準備をする必要性を痛感しているからだ。

 

 

なので粛々と、準備を進めている。

これは「PARALLEL/CYGNUS」本編という私にとって大切な長編を執筆する為の準備であり

同時に、私の「創作行為・活動」そのものの見直しでもある。

 

▼体制作り

▼今までに触れて感銘を受けた作品の見直し

▼創作技術の勉強

▼古典作品等のインプット

 

今考えているだけでも、これだけある。

更に精神衛生の観点から、意図的に別ベクトルの作品も作る事にした。

小さくてもひとつ何か作品を作り上げるだけで、かなりストレスはなくなる。ひとつに取りかかりそれしかやらない、そしてその進捗がスロースピードであるという状態は、私にはどうも良くないらしい。

短期なら有効な場合もあるが、それ以上長く取り組む場合、四六時中そればかり考えてしまい疲れてしまう傾向が自身にある事を自覚しつつある。

思い詰めない為にも、様々な作品に触れ、作り、離れて近づいてを繰り返しながら気負わず長編執筆に取る組むのが良い。

そういう体制で行こうと思っている。

 

そんな訳で、大分足の長い話になる。

長編執筆を機会に自分の創作に関するあれこれを見直しているのだから、時間がかかって当たり前だとも言える。

 

加えて(先日Twitterで書いたように)最近ひどく体調を崩した。

あれは本当にひどくて、流石に生活習慣を改めようと思い、色々動き始めている。

※そう言いつつこんな時間に記事を書いている。次からは控えねば・・・・・・

無理は出来ないという事だろう。そして、焦っても何も良い事はないと病床で痛感した。やれる事をやるばかりである。

 

「真夏の空席」投稿完了から2ヶ月程度だが、その間に大分多くの事があったと

ここに書いてみて改めて思う。

実はここに書くまで、進展が中々思うように行かず、牛歩の感覚を日々抱いていて意識の重荷になっていた。

しかしこうして書いてしまえば何のことはない、色々とやってはいたのだ。

 

気ばかりが少し、急いていたのかもしれない。

どうせ誰に急かされているでもない、自分でも自分を追い詰めても仕方がない。

 

無論、すべてではなくとも急ぐべき事項はある。

だが、何が急ぎで何が急ぎでないか見極め、大局的に考える視点・意識を持つところからがスタートだ。

 

 

思いつくままに深夜テンションで書き綴ったが、書いてしまえば色々と自分の中でも整理が出来た。

とにかく、書き手である自分さえ長い目で見ねばならないと自覚せよ、という事だ。 

 

そして、私はやはり書きたい。

この長い長い構想の果てに、せめて形にしてやりたい。そう思わずにいられない。

 

故に、本編の執筆を諦める予定は今もなお、ない。

■初稿執筆完了

エピローグの着地点は、ずっと決めていた。
しかして、機械的にただ場面を書くというのがどうにも嫌だなと思い、この週末悶えていた。

先程、ようやくなんとか納得出来る程度のものに出来た。これで、ついに初稿の執筆が完了した。

まだ「真夏の空席」を書いただけで本編ではないが、それでも、すべてはこの延長線上にある。

やはり、人のドラマというのは、物語というのは、時系列が原則なのだ。例え作品として見せる流れが違えど、起こる事は時系列に流れ、そこを把握し、納得出来るようなものになっていてはじめて、成立しうる。

これから、校正と、そして挿絵の制作に取りかかる。
来週か、遅くとも再来週には投稿をはじめたい。

■探求と発見

現在執筆中の小説「真夏の空席」において、主人公の朱鷺子は美大を目指す。

その過程における葛藤を描く中で、さて私は、そういった類いの絵を描いた事が無かった事を再認識する。俄然興味が沸き、実際に描いてみて、体験することにした。

 

そうしてデッサンや、色のある絵をアナログで練習しやってみると、様々な発見があった。下記にこれをまとめる。

・質感は本物以外伝わりにくい。紙面に筆で描いた絵は、質量を持った物体である。インクも、黒鉛と粘土も、質量と体積を持ってそこに存在している。

・スキャンすると光の加減で消えていた混色が浮かび上がる。それは鉛筆画でも実は同じ。X線解析された絵を見ているようで面白い。

・総じて、描かねば分からぬ、描けば分かる部分が、全てでは無いが確かに存在する。そして、創作の本質は同じであると実感する。

 

なお、細かいところで知った所は下記の通り。

・アナログ画材は高い。朱鷺子は美大に入ってもきっとバイトを続ける。

・質感を出すのは執念。鉛筆画では特に如実。

・白は消す道具というより描く道具と意識する。プラスチック消しゴムは淡い陰影のモチーフ程威力を発揮する。汚れかと見紛う濃淡を調整し続けたとき、急激にそこに“質感”が浮かび上がる。あまりの変化に自分でも驚く。

・嫌でも画材の知識がつく。

・ハイユニで描いた線は赤みを帯びる(スキャンすると如実)



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■「PARALLEL/CYGNUS」創作の為の工程備忘録

現在取り組んでいるのは、「L’écrin -Saphir-」収録の「真夏の空席」の小説化である。

本編に至るプロセス、過去を描くに都合が良く、また短編以上の執筆において検討してきた技法で、本当に長編が書けるかの確認も兼ねている。

そして何より、本編における主人公・航一郎の経歴であり履歴であり、心理推移を明確にする事がある。彼は何を思い、どのような経験・体験を経て本編へと至るのか。
それを把握せずして、本編の彼を知る事は出来ないと思った。私はまだ、彼を知る必要がある。

一人称で進行し、視点は二人の間を行き来する。航一郎の視点、朱鷺子の視点。
シナリオは「真夏の空席」中の設定資料(http://cygnus-cc.com/manatsu-no-kuseki/)に準じれば、半分程のところまで来た。
すなわち、休憩時間に朱鷺子の絵を見るシーンとなる。

原作の設定資料では何気なく絵を見たようなニュアンスにも受け取れるが、描いている内に少し重いシーンになった。設定は変えていないが、ニュアンスが変化している気がする。
作為的というより、流れ上これが自然となった。
他人にはじめて絵を見られる、それも航一郎の考えが変化し、彼女の絵から受けた印象が、その絵への想いが、結末や自身の課題に対する答えを決めていく。
すなわちそれは重要なシーンであり、双方の体験に熱量があるべきだろうと思った。
悩んだ結果、客観的な物語性より、自分が当人ならどうするかで内容を決める、という事で落ち着いた。
腑に落ちる理屈とは、展開とは、自分ならこうする、にあからさまな違和感を生じないのもである。


結末は原作通りだが、後は具体的に彼と彼女の至る行動・そしてそれぞれが出す解は、まだ未定だ。方向性は分かっている。だが、人間の経験・体験・選択・行動・心理は時系列に進行する。
ならば愚直に、彼らの経験をなぞるべきであろう。その時間の積み重ねが、結末へと至る。


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■「PARALLEL/CYGNUS」創作の為の工程備忘録

CYGNUS.CCの2次創作小説「PARALLEL/CYGNUS」について
前述の記事に基づき、ここに現状を書こうと思う。
なるべく、定期的に。
備忘録的な書き方、箇条書き的な書き方で主に。


▼プロットの進捗について
全体の流れ、ストーリーの流れ自体は随分前に作成したし、未だ変わっていない。
現在、取り組んでいるのはその中身である。


▼時系列ストーリー(時系列の出来事)の進捗状況 
「過去編・現在編 ✕ 2人の主人公のストーリー」
=「ひばりの過去のストーリー」「航一郎の過去のストーリー」「ひばりの現在のストーリー」「航一郎の現在のストーリー」の4ブロックに大きく分ける事が出来る。
そしてこれらは、作成順にもなっている。

現在から過去を作る事は難しい。
過去の出来事の延長としての現在を描く事が自然だ。

ひばりの過去に対するストーリーは、何とか先日、書ききる事が出来た。
現在は、航一郎の過去について書いている。
この為進捗状況は下記の通りとなる。

・ひばり 過去編 ○
・航一郎 過去編 △←進行中
  ↓
 過去に2人に何があったかが、すべて明確化する。
 これをベースに現在編が構築される
  ↓
・ひばり 現在編 △ 大枠と結末のみ作成済
・航一郎 現在編 △ 大枠と結末のみ作成済

この手法の歯がゆい所は、序盤たる現在編が最後に構築されるところだ。
デモやエピローグを書こうにも、すべての基本プロットが揃わないと書きようが無い。
更に、後述するように演出法としての時系列はまた異なる。

物語として成立するような、現在と過去の提示順、演出として魅せる為の提示順を考えなければならない。

▼大枠から、具体的な人物の動きへ
現在編の結末は、一応出来ている。

今取り組んでいるのは、そこに至るまでの人々の動き・心理の動きである。

流れとして不自然にならないように、それぞれの主観での行動を考えている。
行動するという事は、その人物の人となりが明確である事である。

すべて理解出来ないにせよ、最低限筋の通っている主人公の心理変化や
行動であるようにしたい。
本作は主観進行する部分が多い為、尚更である。


▼時系列≠物語である事
物語は、必ずしも時系列順に進行しない。
現在→過去→現在、というように、時系列を行き来する作品は多い。
特に“特定の事件”を扱う作品においては、むしろせざるを得ないものである。

この“行き来の仕方”が、作品の特色を表す事もある。

まず、物語が現在→過去→現在と進む場合。
推理モノで言えば、現場に駆けつけた刑事や探偵役が“現在”から“過去”を捜査し、過去の真相を明らかにしていく過程を読者に見せる。
そこには、捜査している人間と同じ目線が読者にも与えられ、臨場感や共感性を強く意識出来るという利点がある。
例:点と線、サスペンスドラマ

これに対し、あえて意図的に時系列を過去→現在とする場合がある。
最初に犯行という“過去”を描くと、犯人側の目線から事件解決を見る事になる。
主役であるはずの探偵を、追いかけられる犯人の目線から見る事になる。
例:刑事コロンボ古畑任三郎

そして、時系列が意図的にシャッフルされた作品。
この技法に関しては、正直難しい。
余程の演出意図が無いと、綺麗にまとまらない、必要性が明確化しない。
例:BACCANO! -バッカーノ!-、涼宮ハルヒの憂鬱

しかし、上記に対しかなり“使いやすい”手法がある。
これは、本編の流れは現在→過去→過去や、過去→現在、としながら、間にサブリミナル的に、シャッフルされた断片的エピソードが見える事だ。

実は多かれ少なかれ、様々な作品で用いられた技法である。
しかし、こうして書き並べてみると、なるほど理にかなった手法なのだ。
それは、時折ちりばめられる“点”が、ストーリーの進行に合わせて段々と“線”になっていく快感がある。
例:serial experiments lain(PS版)


▼今後の予定
今後の予定は下記の通りとなる。


・ひばり 過去編 ○
・航一郎 過去編 △←進行中
  ↓
 過去に2人に何があったかが、すべて明確化する。
 これをベースに現在編が構築される
  ↓
・ひばり 現在編 △ 大枠と結末のみ作成済
・航一郎 現在編 △ 大枠と結末のみ作成済
  ↓
 時系列の出来事の完成
  ↓
・全体プロットの調整・再構築(物語としての不足要素の確認と追加、演出としての時系列提示方法の決定etc)
  ↓
・各章プロットの作成(1章~)
・本文執筆(1章~)

こうして書いてみると、実に構造的というか、長編的な書き方である。
短編ばかり書き、本文から書き始める事も多かった私にとって、これは実に未知の領域である。
うまくいくのか半信半疑な手法だが、各種のシナリオ・構成論本より得た知識と、実践において構築した手順であり、徐々にではあるが効果を実感しつつある。

ガリガリ書き上げたいと思いつつ、体調不良や平日の仕事などもあり、中々日数レベルでのスケジューリングが出来ていないが、出来るときにやるという状態にある。
全体構造が明確化さえすれば、そこからはかなり目安の取れやすい工程に切り替わるモノと思う。

文章を書く事自体はまるで苦にならない、むしろその為に書いているような人間なので、逆にそこに至るまでのプロセスで未だ葛藤している状態だ。
とはいえ、流石に大分時間をかけ、様々な検討や試行錯誤を試した結果、感覚やコツ、少しのノウハウを得つつある。

大分、霧のかかった状態からは脱した感覚である。
行けるか行けないか分からない、という状態からはどうにか抜け出した。
ここから、手を動かせばどうにかなる、という段階まで到達すればしめたものである。


■創作過程における不毛感に対する解

言ってしまえば、工程を晒すか否かである。

完成形に対するスタンス。
内情を吐露したいという欲求。

問題は、これが二次創作であるという事。
すべての反応が未知数である事。
ただ、無為にしたくないという事。

私はこの工程を晒して、何を確認したいのか。
ここまで作っているのに、未だ形に出来ていない、出来切れていない不毛感か?
確実ながら牛歩的な進捗への、反応を得たい、否、足跡を記したい衝動か?
懸念しているのは、無反応に対する不安か?
そして、それさえも最早考える余地が無いほどに、この工程を綴らねば折れてしまいそうな自身の状態を懸念している自分もいる。
創作していると混乱してしまう、容量の小さな自身をまずは自覚せねばならない。

本来、自身が誰よりも満足して、机の引き出しにしまっていい程のものを形にするスタンスだった。
品質としてはそれが正しいと今も思っている。
では、スタンスとしてはどうか?

あぁ、何を迷っているのだろう。
全体が出来ないから、部分公開もままならないのだ。
重要な部分が出来ていないから、取り下げる事態になるリスクを恐れている。

根本がきちんと出来ていれば、いくらでも“やりよう”はあるのだ。
すなわち、そこに至るレベルの構築が出来ていない。

ならば、目標はまず
そこであろう。


更に言えば、工程なのだから
後に予告無き変更をする事も
いとわない姿勢が健全なのかもしれない。

創作家のTwitterやブログにおける工程公開やその心情吐露は、精神衛生において実に有効な手段と言える。

何よりも避けるべきは、筆を折る事だ。
これを回避する手段は、積極的に取るべきである。