■インディーズゲーム開発に3DCGは本当に必要か? -または私は如何にして3Dゲームを恐れて2Dゲームを愛するようになったか-

最近インディーズゲームが興味深くて色々みている。

見ているというのは作品内容だけではなくて、開発に関する話とかについても。

そうしている中で、ふと「インディーズゲーム開発に3DGは本当に必要か?」という疑問がわいたので、ここに考えを整理してみる。

※私にゲーム開発の経験はなく、あくまで個人の感想

 

▼3DCGの利点

ゲームビジュアルにおける3DCGの利点は、大きく下記が考えられる。

 

・流用性

3Dとしてのビジュアル

・自由度

・アニメーション、動作

 

▼流用性

まず、流用性には2種類ある。

 

・その作品内での流用性

・次回作以降への流用性

 

作品内での流用については、作るだけなら数日で必要な「パーツ」が準備出来るだろう。

RPGツクールのように使うグラフィック素材を用意すれば、あとは組み合わせでいくらでも様々な形が得られる。理屈上は。

だが、問題は作り込みである。

高い理想を目指す程、難易度は跳ね上がる。工数が増えるだけならまだマシで、そも技術的な実装方法が見つからないというリスクがある。修正に合わせて、作業規模も工数も増える。

また私は機械設計用の3Dソフトしか触った事がないが、3Dの怖いところはどんなに頑張って労力で押し切ろうと、ソフトの仕様やモデリングの関係上描けないものは全く描けないという事にある。

嫌でも専門技術を得るか、クオリティを諦めるか、別アイデアで回避するしかない。

 

修正や改良を簡単に出来るようあらかじめ作るのは、さらに大変だ。高度な知識とスキルに基づく基礎設計が要求される。

下手なモデルは一発目は速く出来上がるが、小さな修正さえ出来ない一点物になっているのが常だ。素晴らしいモデルはこの逆である。

 

これらの問題には、まず「世に既にあるものの活用」が効果的と思われる。

誰かが作ったグラフィックの流用がすぐ思いつくが、エフェクトや画像修正も既存のものを活用できる。モデルを動かすならなめらかな動きの処理や、処理落ち対策の為の方法等。

ただしこれを的確に探しバグを考慮し、ライセンスを確認し必要に応じて契約・購入するのは中々時間がかかる。精通するエンジニアがいれば別だが、雇うにもコストがかかるしそも優秀なエンジニアを引き込めるか続けてくれるか問題がある。

 

アウトソーシング(外注)すれば良いと考えるのも手だが、そうすると発注費用以前に管理コストが激増するだろう。

思ってたのと違う、世界観やビジュアルが統一されない、言った言わない等のやり取りで日が暮れる。

そうならない為にはプロジェクトマネジメントの知識とスキルが管理者に要求される。

 

開発規模や難易度の増大は管理コストを指数関数的に増やす。アウトソーシングしても、そのマネジメントに時間がかかる。

そしてどんなプロジェクトも効率的にマネジメント出来て問題なく現場を回せる工学的手法は、私の知る限り存在しない(あったら教えてほしい)。

PMBOKは素晴らしいが、結局は便利なツールが沢山入った道具箱の域を出ない。だから「知識体系」なのだ。理論ではない。

様々な技術知識を組み合わせ、対象のプロジェクトに適用させる他に術はない。

 

結局、流用性が上がり効率的と思って3DCGを選んだ結果、むしろ手間と時間ばかりかかり非効率な結果になるというケースが生まれる。3Dは本来非常に優れた技術だが、その分難易度は高く、流用性を理由に安易に手出しすべきではないだろう。

 

では、他作への流用はどうか。

これはあくまで過去作があってはじめてその「同じ規格の資産」を活用できる。

大手メーカーが強いのは「同じ規格の資産」を多く持っているからだろう。違う規格の資産なら世に数多くあるが、前述の通り自作に組み込んで使えるようにするまでが大変だったりする(優秀なエンジニアであればその辺は気にしないかもしれないが)。また開発数が多くないとあまり有効ではない。年間開発数の多い大手メーカーは、逆にこれがないと開発が厳しいとも言えるだろう。

 

 

3Dとしてのビジュアル面

次に3Dとしてのビジュアル面だが、これも流用性と同様、作り込みが問題である。

ビジュアルにおいては背景との親和性や2Dイラストとのデザインバランス、また巨額の資金で開発されたソフトと見比べた際、独自性や優位性を発揮するのが難しいという部分がある。

これらを無視してただ3Dで作ったモデルを組み合わせるだけなら簡単だ。

だが、世界観やクオリティを意識し統一や向上を目指すなら一気に難易度があがる。

これに独自性・優位性を考え出したら中々悩ましい。

3Dゲームのビジュアル面は、大手作品さえアラを探せばきりがない。何を優先し何を切っても良いか、限られたリソースの中で取捨選択する。その結果がゲームとしてのバランス、クオリティにつながるのだろう。

 

▼自由度

私は恩師から「プログラムを暴走させるのは簡単だ。問題はどうやって制御するかだ」という言葉をいただいた事がある。

全くその通りだと思う。

3DCGは、文字通りその三次元的な動きがビジュアル面以外に「プレイ出来る」という優位性を持つ。即ち体験性を向上させる。

だが、それはそれだけ「制御しなければならない事」が増える事を意味する。

ゲーム的に、シナリオ的に、あるいは処理落ち等のシステム的な事情から、様々な「出来ないこと」を決めていかなければならない。デバッグ工数も増える。

 

ではビジュアル面だけ3Dにし、動ける範囲は2Dゲーム的にしようとする。

これなら確かに労力は激減する。変わりに、ビジュアル面やアニメーション、動作面で3Dを選ぶ意味を考え直さなければならなくなる。

 

 

▼アニメーション、動作

キャラクターを動かしやすい、アニメーションにしやすい。

この効果は非常に大きい。まず2Dアニメーションを作るのに必要な技術がいらない。3Dモデルのキャラクターと背景とセットがあれば、映画的に「撮影」する事が可能になる。

動いている、動きがつく。これはキャラクターのイメージを、作中のイメージをプレイヤーに実に想像させやすくなる。

では、何故すべてのゲームはそうなっていないのだろう?考えられるのは以下の通りだ。

 

○ゲームとしてのフォーマットと需要の問題

アニメーションや2D表現がゲームにおける主流であった期間は実に長い。コアなゲーマーや、専用マシンを持ったユーザーはリッチなゲーム体験を求める事もあるが、それがゲームユーザーのすべてではない。

未だに2Dビジュアルのゲームが新発売されるのは、単に開発側だけの問題ではなく、需要もまたあるからと考えるのが自然だ。

 

○クオリティの問題

これはかなり大きいと思っている。

感動出来る2Dグラフィックは数多ある。感動出来ないものや不出来なものもあるが、何故かそれらの印象は薄い。

だが、感動出来る3Dグラフィックの作品に対し、感動を削がれる3Dグラフィック作品があまりに多く感じられる。すなわち上と下の差が激しい。違和感を感じやすい。

これは2Dに対し、3Dが文字通りひとつ次元が増えている為と考える。次元が多いと、そこに関わるものすべてが多くなる。色、質感、コントラスト、表現、画面と音、タイミング、体験。

すべてに奥行きの要素を考慮しなければならなくなる。

また、表現の上限と下限の幅の広さもあるのだろう。2D、特にドット絵等では表現制限が大きい。その限界に挑戦したタイトルなどには感動するが、逆に下限もそう深くない。グラフィックがひどいものになっていても、案外そこまで気にならない。まぁこれは私だけかもしれない。

 

○想像余地の問題【または私は如何にして3Dゲームを恐れて2Dゲームを愛するようになったか】
すべてを描かないが故に、想像の余地を与える。これは小説等の文章媒体では特に強力な手法であり効力である。そしてこれは2Dグラフィックのゲーム作品にも言えるものと思う。
2Dでも画面にすべては描かれている、と思うかも知れないがそれは違う。

2Dのグラフィックは「ある場所(視点)から観た(あるいは観てすらいない)」光景や画面を「ある瞬間だけ切り取って」描くのである。
サウンドノベルやADV系をイメージすると分かりやすい。シーン毎に、それを表現する代表的な画面が2Dグラフィックで描かれる。
RPGならマップ移動があるじゃないかと思うかも知れないが、移動の際は移動の映像が、戦闘の際は戦闘の映像が、村の中なら村の中の映像が存在する。
何が言いたいかと言えば、視界移動や変化がシームレスではない。


逆にはじめて3DCGのゲームに触れた際の驚きのひとつは、このシームレスという要素だった。

決まった視線や瞬間ではなくに見渡せ歩き回れるという体験性は、強力な3Dの効果だった。

しかしそれは、良いも悪いも関係なくすべてを見せるという事でもある。私が3DCGゲームにハマりきれなかった最大の理由は、多分これだ。
やればやるほど、箱庭感に浸食されるのだ。ここは箱庭なんだと気づかされる、その閉塞感に耐えられない。
まぁ大分前のゲームに関してなので、最近は違うかもしれない。それでもやはり、やり込んだ時に感じてしまうあの感覚が私にはやはり耐えられない。苦手意識が未だにある。かつて飽きるほどにゲームばかりしていた時期があるからこそ、そう実感する。

 

だが不思議と、2Dゲームにはそれがなかった。
理由はずっと分からなかったが、この記事を書いている中で、それが「想像の余地があるから」ではないかという考えに至った。
2Dグラフィックには想像の余地がある。元々が、見えない見れないものの方が多い前提なのだ。
だからプレイヤーは、終始想像の余地を(無意識にでも)意識しながらプレイする。
だから私は本も、漫画も、ドット絵ゲームも、2Dグラフィックゲームも、今まで飽きずにいくらでも付き合ってこれたのだろう。

長く付き合う上で、この「想像の余地」は強力である。
いつ見ても世界の半分、彼らの顔の反対側は、私の想像でしかないのだ。だから10年後に新たな解釈に気づく、可能性に気づく事だってあり得る。

3DCGのすべてがそうとは言わない。だが、やはりその世界の「想像の余地」という点で劣る(これは善し悪しの問題ではなく、それぞれが持つ「特性」なのだと思われる)。

そして想像の余地は「その世界を信じさせてくれる力」へと繋がる。

 

・・・・・・何にせよ、クラッシュバンディクーが売られていた時代も今は昔。

フル3Dという事そのものの優位性は、ゲームにはもうない。むしろ大手からインディーズまで溢れかえっていて、今ではただのジャンルにすぎない。

その割にあまりに労力が工数が、かかりすぎる気がする。私が知らぬだけかも知れないが。

  

▼インディーズゲーム開発に3DCGは不要か?

では、ここまで言うのならもうインディーズゲームに3DCGは不要なのだろうか。

そう単純な話ではない、と私は考える。

そうではなくて、重要なのは「的確な認識と採用基準」ではないだろうか。3DCGとはあくまで表現手法の一種であり、重要なのはそれを選ぶ理由である。

 

開発プロジェクトというのは基本的にリソースの奪い合いである。どう足掻いても奪い合いである。

だからこそ、一番大事なものに奪わせねばならないし、与えねばならない。

リソースを割くとは、奪わせる事だ。そうでなければ、他のどうでもいいものにどんどん勝手に奪われてしまう。

欲しがった際に、どれに一番にリソースを取る権利を与えるか。そこが重要なのである。

 

ゲームであれば、ただ綺麗なだけのビジュアルにすべてを費やす訳にはいかないはずだ。そのゲームコンセプトに応じて、答えは変わる。

様々な要素の中で何を重視するか、作品のコンセプトは何か、他を捨ててでも譲れない部分はどこにあるのか。

そこから考えねばならないだろう。

 

その意図した選択の中にあって、3DCGを採用すべきか否を決めるべきなのだ。

また最初から3Dで作る必要もない。

例えば『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は、開発中のプロトタイプをまず2Dで作成したという。それで詰めた仕様を元に、あの規模と完成度の作品を開発している。

また『MOTHER3』はNINTENDO643Dゲームとして開発するも挫折し、アドバンス用に2Dドットに開発を切り替えた事で完成させることが出来たという。

グラフィック事情一つとっても、大手さえ一筋縄では行かないらしい。

 

重要なのは、前述の様々なハードルを抱える3DCGを安易に採用していないか?という事だ。

メリットとデメリットを天秤にかけて選択しているか?

足かせになっている割に、成功しても効果は薄いのではないか?

途中からでも切り替えるべきではないか?

考えるポイントはいくつもあるし、そう問いたくなるプロジェクトをいくつか知っている。

 

 

例えば私がゲームを作るなら、自身の優柔不断さや傲慢さワガママさを知っているから、3DCGには手を出さない。

重視する部分に対するこだわりが強いので、変更の柔軟性やプロトタイピングのしやすさを重視するからだ。

大人数で規模の大きい物を作るより、一人やせいぜい少人数で納得出来るものを作りたいと考えるからだ。

また体験性は重視するが、それは「主人公の操作性」というよりも「物語の中における主人公という疑似体験性によってプレイヤーに体験性を感じてもらう」という手法を取るであろう、とも考えている。

 

 

▼最後に

何故だろう、別段ゲームを作る予定もないのにこんなに長々と書いてしまった。

繰り返しになるが、私は別段ゲーム開発経験者でも熱心なゲーマーでもないので、あくまでも一個人の見解と認識いただきたい。