■声
どれほど聴いたか分からぬ程に聴き、live版も聴き、ハイレゾ版まで買った曲がある。
ある夜、寝る直前。
フラフラな状態でウォークマンさえ動かす気が起きず、スマホのモノラルスピーカーで圧縮された音源のそれを再生した事がある。
するとスマホはビリビリと震えながら歌い出した。
ぎょっとした。
まるで箱の中に本当に誰か入っていて、音質だとか伴奏との音量バランスだとか気にせず、ただ必死に訴えかけながら歌っているように感じられたからだ。
音の震えが、振動が、小さな箱を通して伝わってくる。そんな風に思えてならなかった。
歌声とは、人の声とは、振動なのだ。そう実感した。
突如の思いがけない出来事に、私は驚きつつも静聴した。
箱は歌い続け、いよいよ最後のサビに入ると、ビリビリと高鳴り筐体を震わせ見事に歌いきった。
そして伴奏と共に振動は弱まり、曲の終わりと共に静かに止んだ。
私には感動が残った。
明らかに再生環境では(普段より)劣る音に感動した自分に、当初は少し腹が立った。
が、今思い返せばその感動は、おかしなものではなかった。
誰か歌い上げるその声を、壁越しにでも伝わる振動を持って感じる。
声の振動をビリビリと感じるのだから、何か一枚越しに、見えない暗幕の向こうに、必死に表現しようと歌い上げる歌手の姿が想像出来たのなら、その姿に惹かれるのはごく自然な事なのだろう。
私の覚えた感動とは、その”歌っている誰かを、幕の一枚越しに感じた”という事に他ならなかった。
以来、意図的にスマホスピーカーで聴く機会を作る事にしている。
特に、歌う”声”を、”人”を感じたい時には。
■トキメキをあなたに
渡辺真知子のアルバムが、AmazonPrimeMusicで聴ける。
「海につれていって」
まぁ、とりあえず聴いていただきたい。
ドラマティック、実にドラマティックだ。
聴いて心躍る、という曲は芸術だと思う。
ふと、発売日を見る。
1978年5月12日。
あぁそうだ、やはり音楽は自由なんだ。
時代だろうがその時々の流行だろうが技術だろうが。
そんなもの所詮、プロパティ情報に乗る程度のものでしか無い。
音楽の本質にとってはまるで細事なんだ。
いつだって、固定概念に捕らわれ、窮屈な思いに勝手に駆られるのは、自分なのだ。
そう教えられた気がした。
色々思うところがあったので、下記に各曲の感想を書く。
なぜこのアルバムを急に1曲1曲取り上げるかといえば、まったくのタイミングだ。
他にも心底感動したアルバム、自分の過去に食い込んだアルバム、青春に焼き付いたアルバム等多数存在するし、書こうと思えばいくらでも書ける。
ただタイミングが合ったので、一気に勢いで文章化してみたという事だ。
と、なぜ私はここまで必死に弁明しているのだろうか。
本アルバムだけひいきしている訳では無い、と言いたいのだろうか。
作品に優先順位なんてつけないという考えが根底にあるから、誰に怒られるわけでもないのに弁明したくなる。なんだか他のアルバムや曲がこっちをじっと見ている気がしている。閑話休題。
「海のテーマ (インストゥルメンタル) ~海につれていって」
1曲目。インスト~という表記で分かりづらいが、ようはインスト曲「海のテーマ」と、ボーカル曲「海につれていって」の2曲を合わせ、1トラック目としている。
私は、短いインスト曲でもトラックが分かれているアルバムしか知らなかったので、こういうのもあるのかと教えられた。
もうこれだけで、あぁ音楽はやはり自由でいいんだと、思い知らされた気がする。
いや、私が凝り固まっているだけかもしれないが。
知見の狭さを改めねばと、こういう体験をする度思うのだが、気づけば安全な場所を周回しようとしている。安全場があるなら尚のこと、余所を見るべきであろうに。
「かもめが翔んだ日」
2曲目。ご存知の名曲。
改めて聴く程ドラマティックな曲だと思う。
名建築のような見事な構造美を感じる。
それでいて、余すところなく歌唱力を中心に据えている。
「片っぽ耳飾り」
3曲目。聴くと深呼吸して肺に空気を満たすような感覚を抱く。
間に入るハーモニカも、しつこくないくどくない。ここでコブシを効かせたような演奏をされては興ざめだが、それを防止出来ているという事は良い編曲~マスタリングがされているという事だろうか。詳しくないと語彙が貧弱になる。
サビの美しい声の広がりはもちろん、後半の色彩豊かなラララ(ボーカリーズというらしい)は必聴。
「愛情パズル」
4曲目。一転、ポップ的な曲調。
こういうタイプの曲って、そういえば最近聴かない。昭和歌謡的な番組でも、何故かこういう曲は流れない気がする。私が知らないだけか。
この曲も聴いてると、音楽って自由でいいな、と素直に思えてきて気持ちが軽くなる。
「私の展覧会」
5曲目。コーラスとか演奏とか作りとか明らかに昭和のそれなのだけれど、まぁ格好良くて仕方がない。
最初はあぁこういうのかと斜めに構えて聴く。昭和のアレね、という頭で聴きはじめる。
しかしその内に、あれ、これは昭和のアレという色眼鏡で見ている自分がちっぽけなのであって、こういう技術は、実は非常に描ける世界を膨らませ、鮮やかにかつ挑戦的に表現できるすごい手法なんじゃないか、それを自分が分かってなかっただけなんじゃないかと思い始める。聴き終われば私は反省している。
「迷い道」
6曲目。これも以前の記事で書いた。
テレビ等で聴くと歌唱力と生演奏が前面に出ている印象だったが、CDとして聴くと演奏が実に耳心地が良い。曲の編曲~マスタリングが非常にしっかりしている印象だ。
「なのにあいつ」
7曲目。ここまで聴いていると、もうこの手の前奏が波の揺れ動きに思えてくる。
伴奏が聴かせる。「かもめが翔んだ日」のB面だが、当時大阪ではこちらのほうがチャートアクションが良かったらしい。
「今は泣かせて」
8曲目。流れ的に、もう落ち着いて終わるアルバムなんだろうなという予想がここで覆される。
ここに来てここまで盛り上げるのか、と。サービス精神の塊のようなアルバムだ、とこの曲を聴きながら思った。
「朝のメニュー」
9曲目。何故か聴いてて、のこいのこの「パタパタママ」を思い出した。時代も近いから、こういう歌い方や曲調から連想するのだろうか。内容も近いと言えば近いか。
どちらも、当然の暖かな関係性、日常生活が背景にある曲だ。
「パタパタママ」がみんなのうた的に認識されるのは、その構造ゆえだろう。
「あなたの歌」
10曲目。通しで聴いていると、あれ、もうラストかと思う。
こう思うという事はすなわち、このアルバムは連続で聴いている内に完全に魅せられ、ただただ甘受する領域に至るという事だ。
だから、当然のように歌の世界は続いていくと認識し、今度はなんだろうという姿勢が無意識に出来、その上で聴いている状態になる。
そうして、ふいにトラックNoを見てはじめて、はっと気づく訳だ。むしろ気づかず最後まで聴いてから、終わった事に驚くかもしれない。
恐ろしい。このアルバムはもはや、そういう次元の世界構築に成功している。
演奏は控えめで、歌唱を聴かせる曲だが、決して演奏が希薄にはならない。
歌唱を中心に据えているが、圧倒する感動で押し寄せるというより、終わりながらもまだ終わらず、どこかに続いていくような印象を与える。すなわち、アルバムはここで終わっても、その先もずっと渡辺真知子は歌い続ける。
歌詞中にまったくそんな事は書いていない。いないのに、そういう心象が気づけば残っている。そんな曲だ。
「あなたの歌」というタイトルの曲を最後に持ってきている、その意味を余計に、勘ぐってしまう。
最後まで、どの曲もバランスが崩れない。
アルバムとしての流れもまた、驚異的な完成度を誇る。
なんというか、ここに安心を得た心持ちだ。音楽は当然のように人を救うらしい。
■数字でも嘘はつける
数字は嘘をつかない、これ自体は正しいと思う。嘘は人間がつくものだ。
しかし、嘘には数字もよく使われる。
数字だから盲目的に信じるというのは、少なくとも理系には通じない。
数字の根拠、導出過程、その出所こそが重要であり、計算も検算もろくにせず運良く合致した値に意味は無い。
信じがたい数字や目立つ数値を見たとき、大概の者は(特に専門家である程)驚愕するよりも、その導出過程のミス、あるいは嘘を疑う。
数字を盲目的に信じる理系のキャラは、フィクションの世界の存在である。
作る側だから尚更、余所で作られた数字を無根拠には信じない。
■ネゴシエーションおぼえがき
交渉において重要なのは、項目に優先順位を設ける事だ。
とくに、最終防衛ラインは明確化しておく。
理想はすべての項目をこちらの思惑通りに通す事だが、それが出来る保証は無い。
大事な事は、全く譲歩しない事ではなく、何か譲歩しないと最終防衛ラインが危うい時に、適切な項目を妥当な範囲で譲歩出来るか、すなわちカードとして切れるかという事である。
交渉の現場において、自身が冷静な判断を下せると期待すべきではない。だから先に整理し、把握しておく。
冷静な目で見たそれを、書面化して持ち込めれば尚良い。
場の雰囲気に流され、ジャックを守る為にジョーカーを切る下手を打たぬ為の護身術だ。
事前に整理せず挑むのは、ジャックとジョーカーの区別さえつかないままに、テーブルにつく事と同じだ。
また、味方が同席するなら”何がジョーカーで何がジャックであるか”を、あらかじめ説明しておくと良い。
味方が場の雰囲気に飲まれジョーカーを切ろうとしたら、露骨に嫌な顔をすれば良い。
彼は私の顔を見た途端に思い出し、我に返る。
それでもなおジョーカーを切るなら、責任は彼にかかるので、こちらの責は少なくとも免れる。
味方がもしその責をも逃れ、こちらに丸投げしようとする輩なら、味方であれ同席させるべきではない。
後ろから刺されない為の諸準備もまた、意識すべきである。
■村下孝蔵
まったく偶然に、はじめて知った。
なんだこの声は。恐ろしい美しさだ。男の声は、こういう歌い方もできるのか。
聴く程に、開いた口が更に開いていく心持ちだ。
この隙のない歌唱は、一体全体どういう事だろう。
それでいて、曲自体も最初から最後までドラマティックだ。なんなんだこの完成度は。
村下孝蔵「踊り子」
※AmazonPrimeに加入していれば、PrimeMusicでアルバムを聴く事が出来る。
他にもAcousticVersionで統一された「GUITAR KOZO」やlive音源アルバム
「月侍哀愁歌」等、多様なアルバムが聴ける。加入しておいて良かった。
「月侍哀愁歌」は格好良すぎて序盤から卒倒しそうになる。
アルバムタイトルや曲名からは想像も出来ない凄い物が惜しみなく聴けるので
先入観を捨てて手当たり次第に聴いてみる事を推奨する。
この人はめぞん一刻のOPも歌っているのか。
そういえば、安全地帯の「好きさ」もめぞん一刻だった。
曲に恵まれすぎだろう、めぞん一刻。
追記:
朝からlive版「ロマンスカー」の裏声に昇天しかけている。
■納得の作法
スマホのテキストエディタとPCのテキストエディタのフォントが違うので統一を試みた。
Android側にあわせたかったが、モトヤ系は基本有料であり、無料のモトヤシーダやら何やら落としては適用するもしっくり来ず。
結局、遊ゴシックlightに戻す。
スマホはメモや草案主体、PCは校正や投稿まで出来る場として区切ることにし落ち着いた。
あれこれ調整すれば手立てもあるのだろうが、これで納得したのでいじるのを終える。
重要なのは、身の丈に合わぬ環境を求めるのではなく、後悔無く納得する事にある。
最初と結果変わっていないが、納得が残っている。これで充分だと思う。
気をつけるべきは逆パターンで、変化だけ残り納得しない場合。
決まってもそわそわして次を探す羽目になりかねない。
■input-output device
入出力機器の重要性を、最近痛切に感じる。
不要な程にこだわり各種を試したが、納得出来ず様々に手を出し、最近ようやく理想的な入力機器を手に入れた。
思考とのタイムラグを最短に出来る。この素晴らしさは、体験すると感動する。
こだわった以上の見返りを得られ、満足している。
アナログでもデジタルでも、選んだ筆の特性によりストレスは大きく変わる。
同じもので多少の差だと言う場合、同じに見えるものの差ばかり見がちだ。
しかし、AとBの違いではない。
Aで出来ていた事がBでは不足するから、多少高価で入手性が悪くともAを使うのだ。
むしろ安価なBと、それを補おうとあれこれする内、結果Aより高くつけばまだ良い方で、満たされない場合結局Aを選ぶ事になる。
日常購入するもののほとんどにここまでの要求水準はそも無いし、それで問題ない。
しかしそれではどうにも我慢ならない、支障が出るというものに関して、それを解決しようとするならそれは有益なこだわりだと思う。
また逆に、それは”こだわるべき可能性があるもの”のサインだと考えることも出来る。