■違国日記(第5巻) ヤマシタトモコ著 

※なるべくの配慮をして、ネタバレを含まぬよう努めましたが、無意識に含んでいる可能性がありますのでご注意願います。

 

違国日記の5巻を、ようやく読む事ができた。

 

発売予約のボタンは打っていたものの、内心”やきもき”としていた。
来るまで待てない、という心持は、本に限らぬコンテンツの特色だと思う。

これを感じられるということ自体、1つの特異な快楽なのかもしれない。

 

 

本作は、主人公”朝”と、朝を取り巻く周囲の人々に焦点があてられる。
両親を事故で亡くした朝と、朝を引き取り一緒に生活する事となったもう1人の主人公とも言える叔母”槙生(まきお)”。
2人の生活を中心に、日常は進んでゆく。

 

朝当人は、突然変化した環境の中で、ただ事故死した両親への想いを整理するのではない。
模範的な枠の”子ども扱い”された、制約のかけられた家庭や環境から、1人の個として扱う人間の多い場の中で、日常を過ごしはじめる。
その中で想い、考える様々な事。普通とは何か、大人とは何か。
そうしてそれは、彼女だけではない。

 

周囲の人々や大人達も、同じように葛藤し、考えていく。
今に至る自分の過去とは何だったのか、これからどうすれば良いのか。今に至るこれまで、今から先の明日。朝と同様に、考えてゆく。

 

個人的には、そんな物語であると受け取っている。

 

 

朝は、環境変化に戸惑いつつも、徐々にその中で新たな日常を歩み始め、浸透するように事実を受け止めてゆく。
両親の事故というあまりに劇的な出来事は、物語の進行と共に、内容が明確化していく。

 

そうなのだ、劇的な出来事に遭遇したとき、その全容を最初から明確に把握するという事は、ほとんど無いのだ。

 

人がそういった出来事に遭遇した際、発生する思考はまず、その場を凌ぐ事だ。

火事場からエスケープし、身の安全の確保が出来る場まで逃げてゆく。
そうして一息ついたとき、今まで居た場所が燃える様を見ながら、これからどうしようかと考えはじめるのである。

 

その時点でようやく、まじまじと周囲や自分を見る。
必死に逃げてきたここはどういう場所なのか、自分は何を手に持って出てきたのか。そして、これからどうすべきなのか、どうしたいのか。

 

個人的な考えだが、大きな変化に見舞われた際、人が取る行動のプロセスはこのようなものではないかと、そんな風に私は考えていた。
本作を読んでいると、なお更にそういうものなのかもしれないと、再認識させられる。

 

 

本作の特色に、ただただ彼女の視点で終始する訳ではないという所があると、感じている。
彼女を取り巻く周囲の人々は、彼女を通して、あるいは彼女により影響を受けた環境の中で、自身の過去や、自身の思想そのものを見つめなおす、考え直す。

 

朝を引き取った槙生は、朝の背後に苦手だった姉の影を随所で感じながら、2人の生活の中で、苦手な人付き合いを成していく。
不本意に増える人間関係の中、彼女は自身の確固たる部分を再認識しながら、尚も彼女の中で葛藤する部分もまた再認識し、どうすべきかを自問していく。

 

周囲の人々も同様だ。
これは、朝の持っていた”大人は悩まない、弱くない、変化しないもの”という無意識なイメージと対比されて、より鮮やかに描かれる。そんな訳ないだろうという解が、実際の様を描く事で示されている。
これは見ていて、中々気分の良い表現だなと思った。


印象的で好きなエピソードに、朝と、槙生の元カレである笠町の初対面の話がある。
この会話は特に好きで、何度も読み返した。

 

 

「やめてください 大人はきみたちが思うより繊細なんだよ」
「あっ そうだった! ごめんなさい」
「「そうだった」?」
「槙生ちゃんにも言われて びっくりした」
”「やめて 傷つく」”
「へぇ きみんちのご両親は感情的になんない方だった?」

 

ー違国日記 第2巻 page.9抜粋

 


何気ないようで、これは双方がしっかりとした人間性を持っていなければ成り立たない会話である。
そして、現実においてそんな大人に子供が触れる機会が、どれ程あるだろう。

 

私が中学生の頃、エッセイという形式の本を読んで1番衝撃を受けたのは、面白さもそうだが、人の内面をこんなにも活字にしていいのか、出来るのか、という驚きだった。
その頃周囲には、セキララに素直に、自身の内情を吐露する大人など居なかった。
タテマエだけで成り立つ会話を当然と思っていた私に、それはある種のエポックメイキングな発見であった。
ガラケー全盛期でもあり、ブログなるものも色々と話題になっていた頃だった。人の日記、人の心の中。私にとってそれらは、より”読み物では無い生の声”として、エッセイの延長線上に位置していた。
私はそこから”大人”の実情を少しずつ知る事が出来た。
”自身の心境や想いを文章に出来る人が、心境や心理を綴った文章”の存在と、その書かれている場所。これを知った時、私は子供の世界以外を、ようやく地に足の着いた情報で得られはじめた気がした。

 

 

そんな風に、子供の頃は成人後や大人の世界がまるでブラックボックスであった。今思えば、画一的で規格品のようなイメージを抱いていた気がする。

 

本作にも、こんな会話がある。

 


「…大人なのにわかんない?」
「んん?」
「笠町さん 槙生ちゃんとか奈々ちゃんよりいちばん「大人」っぽい」
「それは・・・ あの人たち悪友だからな 「大人」してるときもあるよ ある日突然大人に変身するわけじゃないからね」

 

ー違国日記 第2巻 page.9抜粋

 


そう、大人などという生き物は、存在しない。
紳士というものが、生き物ではなく人の立ち振る舞いにすぎないのと同じように。
それは、その人間の内面や本質を示すものではない。
いずれ、大人という概念はサンタクロースと同列に扱われるかもしれない。それは、1年に限られた時期だけ、思い起こされる理想像にすぎないのだと。
大人とは、成人を超えた人間が貼られるレッテルにすぎない。子供も同様だ。

そこに大きな意味など無いのであって、まずただただ1人の人間がそこにいるという認識の方が重要であると、私は常々思っている。囚われる程の分類ではない。

 


本作では、このように随所に、様々な問題提起がされている。
子供に限らず、様々な人物達が、誰に言われるでも無く、様々な考えを巡らせる。
大人とはなんであるか、子供の頃の自分はどうであったか。この先はどうなるのかどうすべきなのか。今をどう捉えれば良いのか、誰とどんな関係で向き合い、自身はどうあるのかどうありたいのか、等々・・・・・・。

 

各々がそれぞれの思考を抱えながら、淡々と進む日々がそこに描かれている。
時に重いテーマが、描かれる実在性の高い日常によって、抽象的な世界だけに終始せずに進む。

 


さて、本5巻の内容に関して、衝撃を受けた、いや、厳密には感動を抱いたページがあった。

 

page.23(単行本p.71)の扉絵。

 

朝の母、実里が強く光を浴びて座っている。

背景は無く、人物も他におらず、ただ1人、目を閉じて白い世界に座っている。

その線は随所でぼやけており、特に顔に関して著しかった。


そう、それはまさに実像がぼやけている表現であると、私には即座に感じられた。

 

あぁ、なんということだろう。こんな表現があるのか。

 

そうだ、そうなのだ。
それは、作中で繰り返し語られている事。

 

当人の事は当人にしか分からない。他者から見た像をいくらつなぎ合わせても、実像に近づく事は出来ても、一致する事は出来ない。

 

どうとでも捉えられる、布張りの人形のようなその姿がただ、浮彫りになるだけなのだと。

 

それを端的に表した、これは図解のようであり、そして実情をそのままに描かれた絵画のようにも感じられた。

 

 

私は、芸術や美術の知識に明るくない。しかし、このような”言葉に出来ない、あるいは説明すると悠長になる事”を、形にするという意味での絵というのは、こういうものなのではないか、と今日思った。

 

かつて宗教画は、読み書きのできない人々にそれを伝える目的があったと聞く。
そんな事を、この扉絵を見ながら思い出していた。

 

このような”表現の形”を見れて、私は幸福である。

 

 

まだ本書に抱いた感想のすべてを、書ききることは出来ない。
けれど、抱いた感情を、どうにも書き起こしたい衝動に駆られた。

 

向き不向きはどのような作品にも存在する。
それでも、未だ本書を手に取られていない方は、興味を持ったら一度、読まれてはいかがかと思う。
宣伝文句よりもまず、試し読み等を活用し、実際に読んでご判断いただく事を推奨する。

 

最初の通読は、暇潰しに隙間時間で読むより、呼吸を整えて落ち着いて読みたい類いだと思う。
少なくとも私の休日の午前は、実に有意義に過ごさせていただいた。

 

しばらくは、本書を読み返す事になるだろうと思う。精読もまた、読書の楽しみである。

 

 

違国日記 5 (フィールコミックス FCswing)

違国日記 5 (フィールコミックス FCswing)

 

 

 

■シナリオ・構成理論を学ぶ

引き続き、シナリオ・構成に関する理論を学んでいる。

nagirekka.hatenablog.com

 

短編ばかり書いてきた私が、長編に詰まる理由が、構成に関する勉強をしていて分かった。

短編は、内容を自身の中で把握しやすい。
イデアやコンセプト、テーマ等をそのままプロットにしやすい。
プロットがあれば、あとは演出と文章を具体的に考えながら作っていくだけだ。


私はコンセプトやテーマ、表現したいと考えている内容等を内包→プロット→本文という順で基本的に書く。
無論、きれいにこの順で書ける訳ではないし、その必要もない。

プロットから思いついて書き、それからその内容に対し、これは思いついたはいいがどんなテーマにしようか、どのようなコンセプトにすべきか等を考え、これを元に本文を書いたりする。
本文の序盤やワンシーンだけ唐突に思いつきそこだけ書ききり、さてこれはどんな話にしようと、コンセプトとテーマを、序文や1シーンだけ書かれた文章から考える。

という具合だ。

 

 

このように、いわゆる“書きたい事、表現したい事“をプロットにしている時点で、それらに対する“書き方、表現方法“の、草案・骨格・構造検討を、既に行っているのだ。

 

無意識に、手探りで行っていたと言える。

 

 

しかして、勉強してみて分かった。
これらの工程を、きちんと機能構造で細分化・明確化すれば、無意識に埋めようとしていた項目は、要素は、何であったかが分かった。

 

なるほど、この明文化されていない項目を、無意識に探し続けていたのだ。
道理で、不毛感を抱き挫折してしまう事を経験する訳だ。

 

この理論は、何か1つでも作った経験が無いと信用したくない、考えたくないものかもしれない。

しかして、非常に強力でいて、思い返せば思い返すほどに、あぁ頭の中でこれをやっていたのだなと、納得した。

 

逆を言えば、わざわざ書き出さずに頭の中でもんもんとこれを考えていては、非効率以前に不健全なのだという事も分かった。

 

どうせ自分で全部考えるのだ。
砂の上に棒でメモ書きしながら書くのと、PCやノートを使って考えを整理しながら書くのではどちらが良いか。答えは明白だ。

 

 

■ELECTROCUTICA 10周年

ELECTROCUTICA様の活動が、今年で10周年を迎えると知った。
https://twitter.com/ELECTROCUTICA/status/1169922350306869249
長文体質も相まってTwitterに疎い為、知った頃には既に話題になっていた。

 

 同人の世界は、音楽に限らず活動が個人の任意である為、一期一会の作品も珍しくない。
素晴らしい作品を生み出されていたサークルが、突然休止という事が充分起こりえる。

 

だからそんな中、長く続け、今尚作品を発表してくれる作家の方々には、それだけで感謝してもしきれない想いがある。

嬉しい限りであり、またありがたいことだと思う。

 

 

確か、はじめて触れたのは、アルバム「Hysteresis」のクロスフェードデモだったと記憶している。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9623120
聴いた時にはもう完売しており、出会いのタイミングを非常に悔やんだ。

 

 

表題曲でもある「Hysteresis」は、直訳すれば「履歴効果」というもので、ある物(系)に力を加えてから、力を加えるのをやめても、力を加えられた方はもう元には戻らないことを示す。

 

力が加えられた影響・履歴が、加えたれた方に残り続ける。
だから、履歴効果。

 

この単語は物理学・工学の分野でよく使われ、私はこのアルバムの存在を知る以前から、磁気ヒステリシスの名で知っていた。不思議な形の曲線が、印象的だった。

 

しかし、学生時代に専門書でしか見かけなかった程度の用語を、まさか楽曲名に使用する人がいるとは夢にも思わなかった。

 

 

10周年を記念し、廃盤曲等も公開されるとの事。本曲についても密かに期待してしまう。
https://twitter.com/ELECTROCUTICA/status/1176453691471101952

 

 

 

最初に聴いた時(と言っても前述のクロスフェードデモだが)、これはよほど手練れで中年程の歳の方々が、もう10人くらい集まって作っているのではないかと勝手に思っていた。

 

名を隠したプロがプロジェクトを組んでいるのか、あるいは音楽業界で長く働き、最近独立して自分達の音楽をやってやろうと意気込んでいる集団なのか。

 

どちらにせよ何にせよ、プロの世界から実力・経験共に豊富な集団がやってきて作っているのだろうと、勝手にイメージしていた。
そう思わせる程に、明らかに頭ひとつ飛び抜けたクオリティがあった。

 

音楽は相対論ではないし、プロアマの境界も今や受け手にはあいまいになりつつある。
だからプロだアマだと言う指標で語るのは不適切と思われるかも知れない。
もっともな意見だ。しかし、素直に抱いた印象はそれだったので仕方が無い。

 

とにかく、自身が知る限り、これは特出した類だという確信が、聴いた当初からあった。
そして今でも、それは変わらない。

 

だから後に、基本的に2人の、しかも若いユニットだと知って大変驚いた。
※とはいえ、私よりは年上である。計算に間違いが無ければ、2~3年程年上になる。

 

それ程に、その音楽には高い完成度があった。
おそろしい美しさがあった。

 

 

けれどそれ以上に、衝撃と感動があった。

 

 

 

私は楽曲を購入する際、衝撃や感動に加え、聴くであろう回数や頻度を基準に考える。
その瞬間には、はじめて聴いた面白さがあるかもしれない。
新しい楽曲には、新鮮な情報が必ず含まれている。

 

問題は、自分が新情報に魅せられたのか、作品に魅せられたのかだ。
だから、回数を基準に加える。

 

新鮮な、あるいは刺激的な新情報が、数度聴き一通り得られた後、落ち着いて見た際、そこに何が残っているか。
目新しさを差し引いてなお、魅力的であるか。

 

この楽曲を、この先1年を通して、また数十回以上聴く事があるだろうか。
そして数年後も、この曲を聴いているだろうか。

 

そう考え、基準にしている。

 

 

そんな風に考えながら購入した楽曲は、実際に月日や年を経ても、聴き返している事が多い。

 

そうして聴いた回数がもう分からなくなった頃、これは私にとって紛れもなく大切な楽曲なのだと確信する。
そういう作品に出会える事は、きっと幸福なのだろう。

 

そして、ELECTROCUTICA様の楽曲は、私の中でこの域にある。

 

 

ゆえに、ELECTROCUTICA様と、その作品との出会いもまた、私にとって紛れもなく幸福な出会いなのだと言える。

 

 

 

10周年、心よりお慶び申し上げます。

 

 

■失われた声

クール・ランニング」という映画がある。

 

子供の頃、何度も観た映画だ。
今思い返しても非常に完成度の高い名作で、金曜ロードショーで昔よく放映していた。

 

構成・シナリオ理論に関する書籍を読んでいて、洋画で参考になる作品は何かと考えた際、真っ先に浮かんだのは「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」とこの作品だった。
他にも思い出せば色々と出てくるのだろう、けれどもなぜかこの2つがすぐに浮かんだ。

 

それ程に、美しい構成だったと記憶している。話の流れが綺麗だった。のめり込みながらも、安心して観れる作りが成されていた。
思えば、その流れの美しさが観たくて、内容を知っていながら毎度放映の度に観ていたのかもしれない。
思い出補正かもしれない、しかしその思い出は今も残っている。

 

 

そうして思い出す程に観たくなったので、どこかに吹替版の配信は無いかと探した。
しかし、どうにも予告を観るに吹替の声が違う。

 

まさか、と思い調べると、分かったのは「日本テレビ版吹き替え 」というものの存在だった。

 

これはソフト版(すなわちDVD化しているもの)とは別に存在しており、なおかつ、吹替版のオフィシャル化により日本テレビ版を放送する事がもはや出来なくなっているとの事だった。

 

驚いた。
あんなにも頻繁に放映していたのに、ソフト化はおろか放映でさえもはや観ることが出来ないとは。

 

再生出来ない思い出が失われたような感覚になる。

 

思えば「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」もそうだった。
Amazon等で配信されているのはソフト版であり、テレビ朝日版はDVD・BDにより収録されてからようやく観れるようになったらしい。

 

しかし、それは意図的に収録しなければ、もういつでも観ることが叶わない存在になっていたという可能性を示している。

 

近年は洋画を吹き替えで観る事が少なくなったが、それでも、これは確実に吹替で観たいと思う作品は確かに存在する。

 

もう聴けない声を、追想する。

複雑な心持ちになる。

 

 

■テキストエディタ

アウトライン機能。
これが最近、課題になってきている。

 

以前に書いた通り、テキストエディタに私が求める要素は、主に下記の3点である。

 

・UIデザインがシンプルである
・動作が軽量である
・慣性スクロールが出来る

 

ここまでは、いくつかソフトがあり、現在使用しているものに関して何ら、不満は無い。
問題は、ここにアウトライン機能が加わる場合だ。一気に選択肢は無くなる。
更に、私は複数ウィンドウ起動派であり、タブ機能はまず使わない。同じデータでも、行ったり来たりするのがいやなので、片方を読み取り専用にして、読みながら片方を追記修正したり、コピーして持ってきたりする。
結果、求める機能は計5つとなる。

 

・UIデザインがシンプルである
・動作が軽量である
・慣性スクロールが出来る
・複数ウィンドウで開ける(無論それでも軽い事)
・アウトライン機能がある

 

そう難しい事も無い機能だろうと高をくくっていたが、いよいよ見つからない。

 

しかし、対策は無い事も無い。
インデントと検索機能を使い、検索性を上げるのだ。

 

とはいえ、結局”折りたためない”という問題は残る。
が、テキストエディタ探しに疲弊するくらいなら、それで良い気もしてきた。
人間が一度に見れる情報など、たかが知れている。
複数情報を往復して見たいなら、同じデータを別ウィンドウで開き、片方を読み取り専用にして、常に検索ウィンドウを開いておけばいい。
あとは”手作りの目次”を、テキストデータの1番上に作っておく。
それで、長い長いテキストデータも擬似WIKI的に使える。いわば、折りたためないWIKIだ。

 

あぁ、なんだかこれで良い気がしてきた。結局、折りたたむにせよその設定が必要になるのだ。そこを編集するなら、手作りの目次を作るのと、結局労力・時間は変わらないかもしれない。

 

 

■私が筋肉を見つめる時、筋肉もまた私を見つめている。

執筆の合間、ダンベル何キロを観ている。

 

正直あまり期待していなかったから、1話を観て微妙ならすぐ切ろうと思っていた。
が、気づけば最終話まで完走していた。

 

何故ここまでハマったのか、自分でも不思議でならない。
私は筋トレなどという世界とはとても縁遠く、インドア派である。
体育会系の世界を何より毛嫌いし、甲子園など早く京セラドームで空調完備してやるべしと普段から吐き捨てている。

 

それでいてハマるのには何か理由があると思い、意識しながら改めて観ると、主に下記が挙がった。

 

・知的好奇心への刺激
 →NHK的な作り
 →知らない世界の紹介という構造
・他要素の割り切り
 →集中と選択の体現

 

まず、表層をなぞる程度かと思っていた内容だが、実際は教育番組レベルの丁寧さをもって、筋トレという世界の紹介がされている。

 

NHKの番組で「美の壺」というものがある。こちらの興味などお構いなしに、とにかくニッチな世界をひたすら徹底的に解説していく番組だ。
(「蔵」いうタイトルで、本当にひたすら30分蔵について放送した回はストイックさに感動すら覚えた)
全く今まで興味が無いどころか、知らなかった世界が毎度紹介され、非常に気に入っている番組だった。
※ちなみに、初期は谷啓氏がレギュラーを勤めており、非常に良い雰囲気の良い番組だった。お亡くなりになった際、これから大丈夫かと心配したが、草刈正雄氏に交代し、こちらも非常に味のある良い雰囲気に仕上がっていて、安堵した事を思い出す。中々ここまでの番組を作るのは民放では難しいかもしれない。

 

 

ダンベル何キロを観て、真っ先に思い出したのはこの「美の壺」であった。

 

初心者どころか、先日までその世界すら知らなかった者に、ひたすらその魅力や詳細を紹介し、中へ中へと案内していくかのような構造。
まさにNHK的である。

 

 

そうして比較すると、本作には他にも特徴がある。
それは割り切りだ。

 

萌え、視聴者サービス的シーン、ギャグetc.
これらはまるで割り切って使われている。
視聴者サービスやギャグは、1話から早急にメタ的なツッコミを完了し、視聴者に釘を差す。その要素は所詮ギャグであり視聴者サービスであるから、お遊びでありメインではないと。

 

まさに集中と選択の体現と言える。

 

とにかく筋トレ関連について一秒でも説明したいが、それでは話しにならないので番組として成り立たせるべく、各要素を使っているように見えてならない。

 

 

全方位で視聴者を囲い、あらゆる手を使い筋トレの世界に目線を合わせさせようと言う気合いが感じられる。
そのストイックさがまた面白みとなる。

 

 

 

さて、上記ではずっと筋トレの“世界“と表現してきた。
そう、この作品で他にも面白いのが、筋トレ自体ではなく、筋トレ及びそれを取り巻く世界の方を描いている事だ。
筋トレだけを描こうとすると、それは目的論になる。例えばAという目標に対し、こうしていくという筋トレの理想ストーリーを描く形だ。

 

しかし主人公達は、ひたすら緩やかに仲間を増やしながら、しかして確実に筋トレが“日常“に入り込んだ生活を進めていくし、それが描かれている。一応の目標はあるが、狙っているがごとく進まない。
それはゆるい目標への進行速度を落とし、日常モノとして描く為だと思われる。

 

こうしてまじまじと観察すれば、なるほどハマる理由も納得出来る。
まだまだ世の中、知ったつもりになってはいけないという教訓を得た心持ちだ。

 

 

■きちんと学び直す

PARALLEL/CYGNUSの執筆を開始し、全体プロットも基本設定も出来たというのに、どうにも本文を書いていて止まる箇所が出た。

しばらくは、あぁでもないこうでもないと考えたり、今までに書き溜めたメモ群を見返したりしていた。


力業で行けないことも無いが、こういう場合は経験上、あまり効かないと分かっていた。
仮に力業で進めたとしても、その先がスムーズに行くと思えなかったからだ。

まだ、この先さえ抜ければスムーズに繋がる、ここだけ繋げ方が少しきびしい小山があるから突破したい、という程度の課題にしか、力業は効かない。
それも、あまり使いたくはない。


そうしてしばらく考えた結果、どうにもこれは、根本的な何かであると結論付けた。

そしてそれは、短編を書いていた時にはあまり感じられなかった性質のものであると分かった。


すなわち、長編としてのシナリオやシリーズ構成的な部分で、根本的に何か課題がある。

これは、一度きちんと学び直さねばならない。
いや、そも10代の頃から我流でやってきたのであって、きちんと学ぶ機会を設けてこなかった。
これはせめて”独学”くらいせねば、この先の持久走的な”長編”を乗り越えられない。


そう思い立ち、いくつか本を漁った。


じつは過去にも何度か、小説に関して学ぼうと指南書を漁った事はあった。
が、中々良いものに出会う事が叶わず、これなら書いている時間に費やす方がマシだと断念していた。

しかし、今や課題は明確化されている。
そうして自身の得意・不得意もある程度の自覚が持てているから、技術書・専門書を探す要領でこれを探す事が出来た。
エンジニアとしての経験は、書籍探しという面において有用に働く。

電子書籍というのは便利で、目次と序文程度なら大概が閲覧可能である。
更に、類似の書籍もレビューや類似商品欄等で紹介してくれる。


そうして漁った結果、洋書の翻訳本に良い物を見つける事が出来た。
ここ2~3週間程、これで学んでいる。


本来、ここまで時間をかける予定は無かったが、今日までかかった。

はじめてこの手の本を読んだ為、読むのに時間がかかったというのもあるが
洋書の翻訳本にありがちな、内容以外の難題に苦戦していた。

これは分野に関わらず、例えば学術的な専門書や技術書等でも同じなのだが、洋書には海外特有の言い回しや表現が出る。書き方が出る。

背景にある知識や文化・前提が違うので、シニカルな表現などは特に分かりづらい。


そこを訳者のセンスや技量のフィルターを通しているのだから、翻訳本には物によって独特の読みづらさが生じる。

小説の翻訳本だと、あまり気にならないものが多いかもしれない(あくまで主観)。
これは論理構造よりも、ストーリーやドラマ性がメインだから気にならないのかもしれない。あるいは無意識に読み飛ばしているか気づかないのか。


予想以上の苦戦に、少々閉口した。
だが、得られた結果は非常に強力だった。
たぶん一生使える部類のものであり、有効な関連書も目星をつける事が出来た。


PARALLEL/CYGNUSの執筆に取り組まなければ、下手をすれば一生このように学ぶ機会が、無かったかもしれない。


CYGNUS.CCという作品と、プロジェクトと出会わなければ、得られなかったであろう沢山の事が、ここ数ヶ月の中で劇的に起こっている。
特にELECTROCUTICA様の寛容な許諾(2次創作に対するもの)により、執筆を開始出来た事で得られたものは計り知れない。
場違いかもしれないが、ここで改めてELECTROCUTICA様に感謝を示したい。


さて、そうしてなんとか一通りを読み終え、筆が止まっていた原因も分かってきた。
これは主として、私の骨格構築に不足部にあった。

私は、これから書こうとする物語に対して理解不足だった。

自身で考えている物に理解も何もあったものか。
あるいはCYGNUS.CCの作品設定の読みこみが甘かった事に気づいたか?と、思われるかもしれない。しかし、そうではない。

”物語”という”構造"として、理解不足だったのだ。


どうりで筆が止まる訳だ。
いや、むしろ現時点で止まっていて良かったのかもしれないとさえ思う。
こう必要に迫られねば、腰を据えて学ぼうという気にはならなかった。


課題や原因が分かれば、山を登るところまでは来たようなものだ。
後は下るだけである。


本連休の予定だが、他の同分野で有名な書籍をいくつか購入し読む予定だ。
得た知見をもって、自身の好きな作品を新たな視点で見て見るのも良いと考えている。



大分遠回りした感じがする。
焦りが無いといえば嘘になる。本文を書いていない時間が長いと、不安になる感覚は否めない。

だが、確実に得ている物があるという感覚もまた、ある。


まだもう少し、学ばねばならない。